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志賀直哉(1883~1971)は戦後の昭和22年、熱海に住んでいた広津和郎を訪ねました。
そのとき「東京に比べて夜が明るくて美しかったので、それにつられて熱海に住むことを考えるようになった」と語ったと言われています。
昭和23年1月東京都世田谷で染物業を営む野口直道所有の別荘を借りることになり、伊豆山の大洞台へ夫人と娘と共に移り住み、昭和30年5月まで暮らしました。
ここでは「大洞台日誌・山鳩・朝顔」等を執筆しています。
※現在敷地内には入れません。 |
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文化5年(1809)伊豆山の般若院東蔵坊と村人が道標を兼ねて建てた地蔵です。
ここは旧小田原(根府川)街道の通り道で、源頼朝や徳川家康をはじめ、諸大名や一般の旅人も江戸や鎌倉から熱海へ来るときには必ず横道地蔵のそばを通っていました。
台座の右下には「右おだわらみち」、その斜め上の小さな地蔵尊の台石に「左ひがねみち」の刻字があります。 |
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滋賀の日枝神社から分祀された稲村集落の氏神で、竹林の奥にある階段を上がったところにあります。
日枝神社にある扁額は、昭和26年1月1日、伊豆山稲村大洞台に住んでいた志賀直哉宅に阿部能成や谷崎潤一郎が年賀に訪れた際、志賀直哉の口利きによって阿部能成が木額の表に社名を、裏に年月と署名を書き残したものです。(管理上別に保管) |
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川崎にある身代り不動尊の熱海別院で、京都醍醐寺当山派の修験道の不動尊が安置されています。
伊豆山権現の別当院、密巌院も足利時代の別当職が醍醐寺派であったので、伊豆山と関わりもあると言われています。 |
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室町時代にはすでに造られていた社で、本社は長野県王滝村にあります。
御岳山を崇敬する山岳信仰の社でもあり、伊豆山の修験者がその分身を譲り受け、伊豆山の御嶽の森の中に小さな社を造り安置したのが始まりといわれています。
もとは岸谷バス停の森の中にありましたが、伊豆山神社線道路拡幅によって、昭和45年頃、現在の地に移されました。 |
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伊豆山神社の境内にあり、社宝や神社にまつわる貴重な史料を数多く展示しています。
国指定の重要文化財が2点あります。
一つは後奈良天皇が万民を疫病から救いたまえと祈り、般若心経を手写ししたと伝わる「紺紙金泥般若心経」、もう一つは平安時代のものといわれる「木造男神立像」(像高:212.2㎝)で我が国の神像の中では最大の作例として注目されています。 |
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古代、伊豆山沖で難破し初島に漂着した初木姫が伊豆山に渡り、伊豆山彦命と初めて出会った場所と言われ、後に逢初橋と呼ばれるようになりました。
若き源頼朝と北条政子が始めて逢った場所もここであると言われています。
古文書には岸谷バス停のところにあった御嶽社の森の下に架かっていた橋が本当の逢初橋であると記されており、現在の赤い橋は明治13年、国道として建設されたものです。 |
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伊豆山神社の裏山500m上の巨岩が連なる場所に、菊理媛命を祀る広さ4m四方の社殿があります。
東国一帯に疫病が流行した天平元年(729)夏に白山の神威によって祈願された修験者の神域で、現在でも森林に覆われた一帯は神秘な雰囲気がただよっています。 |
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この地はかって走湯権現全盛時代の別当寺で、密巌院の旧地であると伝えられています。
寺山の畑の一隈には100基を超える五輪塔群のほか、木曽義仲を養育し、後に平塚方について戦死した斉藤別当実盛の墓もあります。
斉藤別当の子、五郎、六郎の別府兄弟は、父の遺骨を伊豆山の密巌院の境内に埋葬したといわれています。 |
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日本三大古泉の一つといわれる走り湯が発見されたのは、1300年以上前の万葉時代までさかのぼります。
伊豆山温泉は、この走り湯を中心に発展してきました。
[伊豆国風土記」にも「尋常の出湯に非ず、一昼に二度、山の岸の窟の中に火焔の隆に発りて出ず。其温泉甚だ燐列し。沸湯を鈍らずに桶を以ってし湯舟に盛りて身を浸せば諸々の病悉く治す」と書かれています。
ここの湯は「研ぎすまされた湯」と言われ、無色透明に近く臭いもなく、入浴しやすい温泉です。
今も70度近い湯が毎分170L湧き出しています。 |
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日本三大古泉走り湯の守護神「走り湯神社」は、平安時代の書「梁塵秘抄」に修験道の霊験の地として記されています。
神様の湯とあがめられ、温泉の守り神として社が建立されました。
この神社にかかる扁額は、三島大社の宮司、矢田部氏によるものです。 |
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伊豆山のまちなみを見下ろすように佇む伊豆山神社は、かつて修験道の霊場として栄えています。
伊豆山神社の始まりは、其の昔、相模国唐浜に流れ着いた神鏡を松葉仙人が伊豆山に祀り、走り湯権現と伝承したといわれています。
祭神には祀られるのは、火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命の三柱。 |
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昭和15年(1940)2月、陸軍大将、松井岩根の発願によって、日中戦争における日中両軍の戦没者を怨親平等に等しく忌慰、供養する為に建立されました。
中国の土を使った高さ3.3mの観音像は、堂側露座に安置されています。
本堂には観音菩薩が安置され、右に日本軍、左に中国軍戦死者の位牌が対等に並べられ、天井や壁面には日本画壇を代表する画家絵がによる描かれています。
また、ここからの眺望は伊豆山随一です。 |
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逢初橋のたもとにある地蔵堂です。
元暦元年(1184)、源頼朝の長女大姫の病気平癒を願った母政子が、経文を書いた紙を練って作った地蔵尊を逢初地蔵堂に祀り、延命祈願をしたと伝えられています。
この延命地蔵尊は二体つくられ、1体は逢初地蔵堂に、もう1体は頼朝旗揚げのとき走り湯山常行堂に納められました。 |
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伊豆山神社の裏手に広がる「古々井の森」又は「子恋の森」と呼ばれる森は、古くよりホトトギスの名所で、歌枕も詠まれてきました。
拾遺歌集には 「ここにだに つれつれと鳴く 郭公まして ここいの森は いかにぞ 」と言う歌があります。
又、枕草子には、「社はこごひの社」として登場します。 |
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真言宗の古刹で、山号を走り湯山と言います。
明治元年まで伊豆山神社の境内の続きにありました。
かつては真言宗伊豆の総元締で、関東一円に大きな勢力をもち、神社の東側に大伽藍を誇っていましたが、神仏離令により取り壊され、神社西側の現在地に移されました。 |
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この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。
治承4年(1180)8月23日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて安房に逃れました。
この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。
9月2日、政子は、伊豆山権現の別当文陽房覚淵の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。
秋戸郷は足川を南の境とする走湯山の神域東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神域を後ろ楯に覚淵の保護も行き届き、平氏方の捜査をくらませることが出来ました。
其の日のうちに土肥実平の子、遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。
この年の10月7日頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、12日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。 |
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